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まほらま逍遥 (第1回) 川口 博 2015.11
まほらま逍遥
― にわか古代史ファンの古代散歩 ―
常務取締役
川口 博
■プロローグ
私が住んでいる福岡市は博多湾に面して扇のように広がる街です。
東と西には小高い山々が連なり、東西の 山々が狭まったところ、ちょうど扇の要の位置に「水城(みず
き)」という遺跡があります。
平成26、27年(2014、2015年)はこの水城や、大野城、 基肄(きい)城築造1,350年と
いう ことで、関係各地でパネル展やウォークラリーなどのイベントが開催されました。
「1,350年前に何があったのか。」
私の古代への旅はそこから始まりました。
1 白村江(はくすきのえ)の戦い
660年、朝鮮半島では日本の同盟国であった百済(くだら)が唐・新羅(しらぎ)の連合軍より滅ぼされ
ます。
663年、日本(倭国)は百済再興を期して兵を出しますが、白村江(はくすきのえ)での海戦で唐・新羅
連合 軍に大敗します。
女帝斉明天皇の亡き後、事実上の天皇だった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)は
唐・ 新羅 が博多湾より攻めてくることを恐れ、664年水城を築き、さらに翌665年に古代朝鮮式山城であ る大野 城や基肄城を築いた、とされています。
中大兄皇子がそこまでして守ろうとしたものは何だったのでしょうか。
2 大宰府政庁跡
水城の南には「大宰府(だざいふ)政庁跡」があります。
大宰府は大和政権と大陸との外交・防衛拠点であり、九州全域を治める役所でもありました。
大宰府政庁復元模型 (大宰府観光協会HPより)
水城築造は太宰府を守りたかったからなのでしょうか。
当時の都であったはずの難波宮(大阪市)や飛鳥板葺宮(奈良県明日香村)にはこれほどの防衛施設を
築いた形跡はありません。
大宰府は都よりも重要だったのでしょうか。
白村江の戦いから4年も経って、中大兄皇子(即位して天智天皇)は近江大津宮(滋賀県大津市)に
遷宮しますが、大津宮が特に防衛上有利とも思えません。
畿内の防衛の手薄さに比べると、大宰府の防衛は異 様です。
飛鳥板葺宮推定地 近江大津宮推定地
3 水城
水城は高さ約10m、幅約80m、長さは1.2Kmに及ぶ巨大な土塁です。
土塁の博多湾側には幅60m、深さ4mの水堀を備えていました。これが水城という名の所以(ゆえん)です。
さらに水城の東側の大野城市や春日市には自然の丘と丘の間(あいだ)を埋めるように、小水城と呼ばれる水城と同様の造りの防衛施設が延びています。
現在の重機を以てすれば、このような大規模造成も1年や2年で築造可能かもしれません。
しかし当時は人力に頼るのみです。ましてや土塁は版築工法と呼ばれる、木の枝を挟んで赤土と黒土の層を交互に突き固める、という工程を何度も繰り返す工法で造られています。このような工法を採れば現在の重機を用い ても、そんな短期間では完成できないでしょう。
学術調査により、水城は何度も何度も補強・改修された跡が見つかっています。
白村江よりずっと前からあり、白村江のあとに急遽補強をした、これが真相ではないでしょうか。とすれば、当初の水城はいったい誰が、何のために造ったのでしょうか。
現在の水城(博多湾側) 水城イメージ
4 大野城、基肄城、鞠智城
水城築造に続いて大野城、 基肄(きい)城が築かれ、さらに続いて熊本県菊池市に鞠智(くくち・きく
ち)城が築かれたことになっています。
大野城、基肄城は土塁と石垣により山頂部を取り囲んだ古代朝鮮式山城です。大野城は博多湾からの敵の侵入に備え、基肄城は有明海からの侵入に備えたのでしょう。
尾根伝いに高さ3mほどの土塁を築き、谷には朝鮮式の石垣が築かれています。大野城は全長8.2km、
基肄城は全長4.2kmあり、基肄城には「北帝(きたみかど)」という気になる名前の門もあります。
これも一朝一夕にできるものではありません。
この土塁と石垣に囲まれた中には確かに兵舎や武器・食料庫の跡と見られる遺構があります。 白村江の後造られたのはこの兵舎や武器・食料庫であり、土塁や石垣はもっと前からあったのではないでしょうか。
ましてや、鞠智城は大宰府からは遠く離れており、また、海(有明海)からも遠く離れた内陸部です。
唐・新羅に備えての築城とすれば、とても不合理な位置と形状です。鞠智城の築造された年は日本書紀にも書かれておらず、白村江の戦いとは無関係としか思えません。
大野城 百間石垣 大野城 兵舎・食料庫跡
5 神籠石(こうごいし)
東は山口県光市、西は佐賀県武雄市、南は福岡県八女市にかけて、「神籠石(こうごいし)」と呼ばれ
る遺構が10数ヶ所見つかっています。
大野城、基肄城のように山頂付近を石や土塁で囲った遺構です。
従来は、神域を示すものと考えられていて、これが神籠石の語源になっているのですが、最近の学術的
な調査の結果、現在では古代朝鮮式山城とされています。
これらの神籠石も大宰府を中心においた位置関係にあるように思えます。各方面からの敵の侵入に際
し、狼煙(のろし)を上げて大宰府に連絡する、、、そういう施設とは考えられないでしょうか。
復元された鞠智城
九州の神籠石 神籠石(久留米市高良山)
6 都府楼、都督府、倭王武
先ほどから大宰府政庁跡と書いていますが、地元の人はそうは呼ばずに「都府楼(とふろう)跡」と呼
んでいます。最寄の西鉄駅名も「都府楼前」です。
「都府楼」とは何でしょうか。
日本書紀の667年の記述は、何の脈絡もなく突然この地を「都督府」と称しています。
中国の「宋書」に478年、宋の順帝が倭王 武(ぶ)を 「使特節都督 倭・新羅・任那・加羅・泰
韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」とした、 と書かれています。倭王武はいわゆる「倭の五王」の最後の倭王です。
都督とは「すべてを率いる」という意味を持った古代中国の冊封体制下の官名です。その都督がいる所
が「都督府」です。
現地には「大宰府政庁跡」の石碑と並んで「都督府古址」の石碑が立っています。
「倭王武は倭王として、都督として、現在の太宰府市にあった都督府にいた。」
そう考えるのが自然です。
ところが、現在の定説は
「倭王武は畿内にいた第21代 雄略天皇である。」
ということになっています。宋書や朝鮮半島の史書に記述された倭王武の記述と日本書紀の雄略の記述とは合致しないのですが。
大宰府政庁(都府楼)跡 都府楼古址 石碑
7 古代への旅
古代は謎だらけです。
私達が知っている古代史は、「神武天皇以来、日本の天皇は万世一系である。」というものです。
いや、現在では、その神武天皇ですら架空の人物として、歴史教科書にも出てきません。
「本当の歴史を知りたい」
その思いで私は、遠い古代への旅に出たのです。
(第1回 了)