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まほらま逍遥(第3回) 川口 博2016.03
まほらま逍遥
― にわか古代史ファンの古代散歩 ―
川口 博
第3回 倭国・倭人を考える
私達の国日本は、古くは倭国(わこく)と呼ばれていたことはご存知だと思います。そしてそこに住む人々は倭人(わじん)と呼ばれていました。有名な邪馬台国が記述された魏志倭人伝の倭人です。
では、いつから、なぜ日本と称するようになったのでしょうか。
945年に完成した中国の歴史書「旧唐書(くとうしょ)」に、
「日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは
日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。」
と記述されています。
よく解りませんが、なにやらとんでもないことが書かれているようです。どうやら倭国と日本国は「別種」のようです。
1 縄文時代と弥生時代
日本列島の古代は、石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代と経過したことは皆さんご存知だと思います。
縄文時代は、紀元前1万6,000年くらい前から始まり、竪穴式住居・貝塚・縄文式土器などを持つ時代です。従来は狩猟、木の実などの採集で食物を確保し、農業は行なわれていなかったと考えられていましたが、最近では、ある程度定住化が進み、後期には稲の栽培も行われていたと考えられています。
縄文人がどこから来たかについては、私も詳しくは解らないのですが、日本語について考えるといくらかのヒントがあるように思えます。
日本語の音節は「a、i、u、e、o」の母音で終わり、他の言語のように「t、s、z」などの子音で終わることはありません。これは「マライ・ポリネシア系言語」の特徴だそうです。
一方、日本語の文法は中国語や英語などとは異なり、動詞が最後に来ます。これはウイグル語などの「北方アルタイ系言語」の特徴だそうです。
単語は比較的容易に取り入れることができますが、文法を変えるには頭の切り替えが必要になります。これは、「マライ・ポリネシア系民族」が居たところに「ウイグル系民族」が進出し、いくらかの強制力を以て文法を変えたことを意味するのではないか、と考えています。
弥生時代は、稲作、弥生式土器を伴う時代で、従来は紀元前数百年前からと言われていましたが、近年北部九州や壱岐などから紀元前1,000年くらいの弥生遺跡が次々発見され、現在では紀元前1,000年くらい前から始まったと考えられています。
弥生の人々はどこから来たのでしょうか。
2 倭人のルーツ
3世紀後半、魏志倭人伝の20~30年前(つまり魏の時代)に書かれたと言われる中国の歴史書「魏略」に、倭人が自分たちの出自として次のように述べたと記録されています。
「その昔からの言い伝えを聞くに、自ら太伯の後裔であるという。・・・」
「魏略」は原本はもちろん、写本・版本も現存しませんが、その後の各史書の注に「魏略に曰く」として引用文が残されています。上の文は、世界に唯一大宰府天満宮にその一部が現存する国宝「翰苑(かんえん)」という書物に、魏略からの引用記事として残されています。
「太伯の後裔」の記事は「梁書」東夷伝にも残されています。
「翰苑」のコピー
1行目に「魏略に曰く」、3行目に「自謂太伯之後」という文字が見えます
「太伯(たいはく)」とは紀元前1,200年頃の「周」の王子、いずれは周の王になる人でした。父の太王は三男の李歴が聡明で、李歴の子の昌が「聖人となる瑞祥」を持っていたため李歴を王にして、さらに昌に王位を継がせたいと思っていました。それを知った長男の太伯は次男の仲擁と共に身を引き、周(陝西省西安市)から呉に移ります。
周の王位は李歴から昌(文王)に引き継がれ、昌の子「武王」が紀元前1,122年に殷を滅ぼし、周王朝を樹立します。
一方、当時は辺境の地、呉(長江中下流域・現在の上海のあたり)に移った太伯は、王位を継ぐ意思が無いことを示すために文身(いれずみ)断髪し、呉を治めます。その地の民は太伯を慕い、やがて太伯を立てて呉の王とします。
このエピソードは古代中国では有名だったようで、孔子(BC552~479)も太伯の徳を称えています。
1世紀末頃に王充という人が記した思想書「論衡(ろんこう)」に次の記録があります。
「周の時、天下は太平。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ぐ。」(論衡・儒増篇)
「成王(周の武王の子)の時、 越裳は雉を献じ、倭人は暢(ちょう)を貢ぐ。」(論衡・恢国篇)
最も古い倭人の記録です。鬯草は祭祀に使われる酒に混ぜた薬草だといわれています。
この倭人は、呉地方にいて、文身(いれずみ)の習慣を持っていた人々と考えられています。
つまり、呉にいた倭人は、太伯の親戚筋にあたる周王朝に朝貢していたのです。
なお、この倭人は東南アジアから移動してきた民族で、文身(いれずみ)も東南アジア時代からの倭人の習慣だったとする説もあります。
春秋時代の中国大陸(中国まるごと百科事典より)
さて、先の弥生時代の説明で、イネの栽培についてはあえて稲作と書きました。
従来は、縄文=陸稲(熱帯ジャポニカ)、弥生=水稲(温帯ジャポニカ)と考えられていたのですが、最近のDNA分析技術の進歩により、その図式は壊れてきています。
温帯ジャポニカのルーツは呉があった長江下流域といわれています。
現在のわが国の温帯ジャポニカは、朝鮮半島の温帯ジャポニカには無いDNAを持つものがあるそうです。
これは、稲の伝播の全てが朝鮮半島経由と言う訳ではなく、長江下流域から直接入って来たものもある、ということになります。もちろん、稲が歩いて来れるはずは無いので、当時から長江下流域と日本列島とは直接人的交流があった、と考えられます。
この太伯の呉の時代に、東シナ海の黒潮に乗って直接日本に稲作を持ち込んだ人々、それが弥生人の第一波ではないかと考えています。
3 呉越の戦い
紀元前770年に、国力が弱っていた周は遂に西側からの外敵の侵入を許します。周は都を東の洛邑(洛陽)に移し、それ以後の中国は春秋戦国時代といわれる不安定な時代に入ります。
紀元前505年に呉越の戦いが始まります。(「呉越同舟」はこのとき生まれた言葉です。)
紀元前474年に呉王の夫差は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の甲斐もなく、越王の句践に伐たれて自決します。太伯から続いた呉はここで滅びます。
呉にいた倭人の多くは南の越に追われ、北に逃げたと思われますが、一部は海を渡って九州に逃れたと考えられています。
越はその後、楚によって滅ぼされます。楚は戦国時代には秦に匹敵するほどに領土を拡大しますが、始皇帝の秦によって領土の多くを失い、その後、漢により滅ぼされます。
越や楚の民族についてはよく解っていませんが、呉と同じ倭人だったという説もあります。
4 契丹古伝
「契丹古伝」と呼ばれている興味深い書物があります。現在の瀋陽市のラマ教寺院にあった文書を浜名寛佑という日本人が日露戦争の軍務遂行中に発見、書き写したものです。
「契丹古伝」のほとんどが古代の東アジアについて書かれています。また、この書物には神話部分を含め、多くの古語が書かれているのですが、不思議に日本の神話を連想させる物語であったり、物や人の名前だったりします。
例えば次のような一文があります。
「伝にこれ有りて曰く、神は耀体、以てよく名づくる無し、これ鑑(かがみ)よく象(かたど)る、故に鑑を称して日神体と曰ふ、読んで戞珂旻(かかみ)の如し」
意味は、「言い伝えによると、神は光輝くからだを持つ。これをうまく言い表せる名前が無い。しかし鏡はこれをよくかたどることができる。そこで鏡を称して「日神体」という。「かかみ」と読む。」
古代の祭祀に鏡が用いられ、現在の多くの神社のご神体が鏡である理由がわかる気がします。何より驚くのは鏡を「かかみ」と称したという点です。
契丹古伝は、もちろん権威筋からは認められていない資料ですが、この資料を深く掘り下げることによって、倭の、日本人のルーツがもっと見えてくる可能性が高いと感じています。
契丹古伝(浜名寛佑著)
5 倭人の移動-1
「契丹古伝」に、
「・・・その最も顕著なる者が安冕辰沄氏である。もと東表の牟須氏の出であり、殷と姻をなす。国を賁彌辰沄氏に譲る。」
という記述があります。
「辰沄(しう)」の意味は「辰国」に関わる氏族のことのようです。契丹古伝は辰と安冕辰沄氏のルーツを同じだと記述しています。
「安冕」は呉音で「アメ」です。つまり「安冕辰沄氏」は天孫降臨した「天」氏ではないかと考えられます。
「牟須(むす)氏」は、古事記の始まりの次の文、
「天地初めて発(ひら)けし時、高天原に或る神の名は天之御中主神。次に高御産巣日(たかみむすひ)神。次に神産巣(むす)神。・・・」
の「産巣(むす)」ではないかと考えています。高御産巣日神、神産巣神はアマテラスや天孫降臨したニニギの祖先です。
牟須氏は東表時代の天氏の祖先で、呉の領域から東表に北上していると考えられます。
「倭人の移動」の項は佃収氏の説を参考としていますが、佃氏は「東表」は黄河と長江の間の東側・海岸側、下の地図の越と斉の国境付近としています。
(現時点で、そのあたりを東表と称したかの確認がとれていません。)
戦国時代の中国大陸(中国まるごと百科事典より)
6 倭人の移動-2
戦国時代(BC403年~BC221年)末期にできたと言われる中国最古の地理志「山海経(せんがいきょう)」に次のような一文があります。
「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」
鉅燕は戦国時代の燕です。倭人は東表からさらに北上し倭国を建国しています。上の地図の黄河河口は現在のものです。当時の河口は「斉」と書かれた文字の北側にありました。倭国はそのあたりにあったと考えられます。
「山海経」にはまた、次の一文があります。
「白狼水は・・・・東流して倭城の北に至る。おそらく倭地人がここに徙(うつ)ったのであろう。」
倭城は白狼山の北にあったことが解ります。上の地図の「燕」の東北、「遼河」と書かれた文字の「河」のあたりです。
黄河下流域に在った倭国はさらに北上し、渤海の最も奥まったあたりに移動しています。
もう一度「契丹古伝」見てみましょう。
「・・・・その最も顕著なる者が安冕辰沄氏である。もと東表の牟須氏の出であり、殷と姻をなす。国を賁彌辰沄氏に譲る。」
天氏(安冕辰沄氏)は国を賁彌辰沄氏に譲った、とあります。
「賁彌」は呉音では「ヒミ」と読みます。邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」の「卑弥」氏ではないかと考えています。「天氏」は「卑弥氏」に国を譲ったようです。
では、どこで国を譲ったのでしょうか。
「契丹古伝」には「天氏が卑弥氏に国を譲り、卑弥氏が建国した直後漢が攻めて来た。これを「亜府閭(あふろ)」で撃退した。」と書かれています。亜府閭は今の医巫閭(いふろ)山のあたりだと思われます。
天氏は渤海最奥のあたりで国を卑弥氏に譲ったようです。
医巫閭山(マークがあるところ)
劉邦による漢の建国はBC206年ですから、BC200年頃の事だと考えられます。
さて、卑弥氏に国を譲った天氏はどこに行ったのでしょうか。
7 高天原の建国
「天氏は朝鮮半島南部に「高天原(たかまがはら)」を建国した。」ある研究者は「宮下文書」にそう記述されていると述べています。私はこの「宮下文書」の記述をまだ確認していません。
魏志倭人伝をはじめ、古代中国では朝鮮半島の南部は「倭国」と理解されています。
朝鮮半島南部の倭国は、中国大陸にあった「辰国」の南下と関係があるのではないかと考えているのですが、朝鮮半島の歴史はまだ勉強中で、確証をもって述べることができません。
「高天原」は朝鮮半島南部にあった、現時点で私はそう考えています。
北部九州に特徴的な墓制は「甕棺(かめかん)墓」と呼ばれる、大きな甕を二つ合わせた棺です。甕棺墓は天氏の墓制だと考えられます。
この甕棺墓が多く見つかっている地域は世界的に見ても、中国長江中流域、朝鮮半島南部と北部九州に限られています。
長江中流域の甕棺墓は新石器時代のBC2500~2000頃のもので、直接の関係はないかもしれません。
朝鮮半島南部の甕棺墓は南西部の羅州(ナジュ)付近と南東部の金海付近で多く見られます。
朝鮮半島の甕棺墓 甕棺墳丘墓
(ネット画像検索したらたくさん出てきます。ハン (佐賀県吉野ヶ里遺跡)
グルが読めない私にはどこのものか分かりません。)
甕棺墓の埋葬方法
(佐賀県吉野ヶ里遺跡)
前回、「ニニギは筑紫の日向に降臨した」と述べました。
ニニギは朝鮮半島南部にあった高天原から降臨したのです。
だから、韓国(からくに)に向かう、筑紫の日向を「甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」と称えたのです。
記紀には高天原の位置に関する記述はありません。しかしまた、経由地に関する記述もありません。ニニギは海を渡って日本列島にやって来たから経由地が無いのでしょう。
30年ほど前に筑波大学の言語学者 故・馬渕名誉教授は言語学的検証および日本神話と伽耶神話の共通性などから、釜山から100kmほど内陸に入った金海市を「高天原」に比定しました。
金海は古代の「伽耶」があったところで、古代日本との結びつきが強い地域です。現在、この地にある「伽耶大学」の敷地内には「高天原公園」が整備され「高天原故地」の石碑が建っています。
高天原故地石碑
ただし、これまで述べましたように、この高天原は倭人の移動に伴う一時的な建国地として考えており、「高天原=金海」説を支持する人々の中の一部の人たちの言う「朝鮮民族が日本を支配した。」という説を支持するものではありません。
第3回 了