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まほらま逍遥(第4回) 川口博2016.05
まほらま逍遥
― にわか古代史ファンの古代散歩 ―
川口 博
第4回 漢委奴国王印を考える
江戸時代天命年間の1784年、博多湾の入り口にある志賀島(しかのしま)で地元の農民が、農作業中に偶然石の下から「漢委奴国王」と書かれた金の印を見つけました。
印は福岡藩に届けられ、藩の儒学者亀井南冥によって、この印は「後漢書」に記述された印に相違ない、とされました。
海の中道と志賀島 先端の島が志賀島。右が玄海灘、 左が博多湾。 湾内の島が能古島、その向こうは 糸島半島 |
1 「漢委奴国王」印と後漢書
現在この印は、国宝として福岡市博物館に常設展示されています。2.347㎝角の小さな印ですが、今でもその輝きを失っていません。
紐(ちゅう=背中のつまみ)は蛇のデザインです。蛇の紐は南方系民族に贈られる印だそうです。
福岡市博物館の研究によれば、元はラクダのデザインだったのを蛇のデザインに作り変えたような痕跡が見られるそうです。ラクダは北方系民族に贈られる印です。
倭人と韓が対峙したのは渤海最奥部でした。倭人は北方系民族だと考えていたのに、実際会ってみたら南方系だった、ということでしょうか。
漢委奴国王印 |
印には「漢委奴国王」と刻まれています。
昔、学校の歴史の先生に「かんの わの なの こくおう」と 読むと教えられました。
「委」を「わ」と読むんだろうか・・・?そう感じた記憶があります。
この印は南冥が鑑定したように、「後漢書」に記述された印とされています。過去には真贋諸説あったようですが、現在では傾聴に値する異説を知りません。
後漢書は宋代の人「范曄(はんよう)」によって、424年頃に編纂された歴史書です。
倭国の記事は「後漢書東夷伝」に記されています。
三国志魏志倭人伝が書かれたのが280年頃ですから、魏よりも古い漢代の事を、魏志倭人伝よりも後に記したことになります。当然、范曄は三国志などの、范曄以前に記された資料を参照したものと考えられており、ところどころにその痕跡があります。
後漢書の西暦57年の記事に、
「倭奴国奉貢朝賀史人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
と記されています。
わが国の最も古い、年代がはっきりとした記録です。
「倭の奴国(倭奴国)が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。」
と言う意味です。
57年に光武帝が与えた印が志賀島の金印です。
後漢書では印の種類はわかりません。しかし太宰府天満宮に残る「翰苑」には漢に贈られた印を「紫綬」と記録しています。紫綬とは紫色の綬(くみひも)で金印にしか用いられません。
この時代は、大切な書簡(一般的には木簡)を行李(こうり)に入れ封泥をしており、この印は封泥用だと考えられています。
2 漢倭奴国とは
後漢書には「倭奴国」とあり、金印は「委奴国」と彫られています。
印の「委」は「倭」を略したものと考えられています。中国ではしばしばこのように簡単な漢字に代えて用いることがあります。しかし中国の漢字は日本と比べても何倍もの数があり、簡単な字に代える場合も「意味」と「音」を変える事は無いそうです。
「倭」は漢音では「ワ」ですが、呉音では「ヰ」です。「委」は漢音でも呉音でも「ヰ」です。従って「倭=委=ヰ」と読むべきだと考えています。
中国でも漢音に統一されたのは、ずっと時代が下がって隋の時代です。それまでは現在の私達のように漢音、呉音が共存していたと考えられます
わが国では792年に桓武天皇により漢音を奨励する勅令が出されました。現在の中国には呉音は残ってないのですが、わが国には多くの呉音が残っています。
例えば「兄弟」を「きょうだい」と読むのは呉音で、漢音では「けいてい」です。
「漢の倭の奴国」と言う読み方は「漢+民族+国」と言わば3段読みです。
「現存する古代中国の印影にこのような読み方は他に例が無い。従って「倭奴国」は「ワのナ」国では無く、「ヰヌ」国だ。」との説があります。「奴」は漢音で「ドゥ」、呉音では「ヌ」で、カタカナの「ヌ」は「奴」から来ています。
しかし、福岡市博物館では漢代の印に民族名が省略される例は無いとして、「漢の倭の奴国」説を採っています。
「倭奴国」は意味としては、「倭の奴国」で良いのでないか、と考えています。倭人が「ナ」と言ったのを中国人が「奴」の字を当てたのでしょう。古代日本語はズーズー弁の発音に近いといわれています。
後漢書には「倭奴国」は「倭国の最南端にある」と記述されています。
金印が発見されたのは志賀島です。倭奴国は博多湾沿岸にあったと考えるのが自然です。博多湾は九州の最北部に位置します。当時の中国では、倭国の北限は朝鮮半島南部だと理解されていました。つまり倭国とは朝鮮半島南部から九州北部と壱岐や対馬を含む海峡国家群だと理解されていたのです。
これは、古事記の神話とも一致します。古事記では五島列島から隠岐の島までが「天(アマ・アメ)」の領域です。
3 後漢書の記録
後漢書の対訳文を書くと長くなるので、いくつか興味深い記述を見てみましょう。邪馬台国に関わる記述もあるのですが、この部分は後日検討することにします。
「倭在韓東南大海中・・・=倭は韓の東南、大海の中にある・・・」
「倭は韓の東南」としていますが、魏志倭人伝では「帯方(魏の領地)の東南としています。後漢書が書かれた宋代の朝鮮半島は中国の支配する領域では無いからです。日本列島は韓の東です。古代中国では「倭」は九州を意味します。
「其兵有矛盾木弓・・・=その兵器には矛、盾、弓矢があり・・・」
「矛」は古事記には最初に陸をつくるところから登場します。古事記の神代記は「矛」文化圏の神話です。
「男子皆鯨面文身・・・=男子は皆顔や体に入れ墨をし・・・」
鯨面文身(入れ墨)は倭人の特徴です。太伯がいた頃の長江下流の倭人の特徴も鯨面文身です。
「安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見=107年 倭国王の帥升(すいしょう)等が160人の生口を献じ参内し天子への謁見を願い出た。」
57年の記事に続く記事です。帥升(すいしょう?)は歴史に登場する最初の日本人(倭人)の名前、と言われています。
57年の記事は「倭奴国」ですが、この記事は「倭国」となっています。
この帥升に関して、先の「翰苑」には「後漢書」からの引用として「倭面上国王帥升」、唐の時代801年に編纂された「通典」の北宋版には「倭面土王帥升」、「唐類函」という書物には「倭面土地王帥升」と書かれています。これらの記述を整理すると「倭面土王帥升」が正しい記述でしょう。
「面土」は「めた」でしょうか、「先代旧事本紀」の中の「国造本紀」にある「筑志米多国造(つくしのめたのくにのみやつこ)」の「米多」ではないかとの説があります。
筑紫に「めた」を探すと佐賀県神埼郡吉野ヶ里町に目達原(めたばる)があります。ここが帥升の国だとすると、吉野ヶ里遺跡は帥升の遺跡ということになります。
4 倭奴国と天孫降臨
金印が志賀島で見つかった以上、後漢書の「倭奴国」は博多湾沿岸にあっただろうということは、ほぼ間違いないと考えられています。日本書紀編纂時代の福岡市の呼び名は「儺県(なのあがた)ですし、那の津や那珂などの地名も残っています。
そこは「天孫降臨を考える」で述べたように、ニニギノミコトが降臨した地です。
漢に朝貢した倭奴国は、ニニギの子孫のクニではないかと考えています。
福岡市西区の吉武高木遺跡3号木棺墓は日本で最古の王墓で、ニニギの遺品を納めたものだ、と述べました。
福岡市博物館もこの遺跡と奴国との関係を示唆しています。(ニニギとの関係には言及していませんが)
吉武高木に次ぐ世代の王墓に福岡市の南、春日市の須玖(すぐ)・岡本遺跡や福岡市の西、糸島市(古代の伊都国)の三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡や井原鑓溝(やりみぞ)遺跡、さらにやや時代が下がって平原(ひらばる)遺跡があります。
ニニギが福岡市西区の「日向」に降臨した後、その子孫が福岡平野全体やその西側の伊都国にまでその支配範囲を広げていった、と考えています。福岡市博物館はこの奴国拡大期を「大奴国の時代」と称しています。
吉武高木遺跡王墓の出土鏡は多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と呼ばれる、複数の紐(背中のつまみ)と細かな線状の幾何学模様を特徴とします。
多紐細紋境はわが国で出土する鏡では最も古いタイプで、現在までに全国で12点しか出土していません。中国東北部に起源を持つと言われ、中国東北部と朝鮮半島西部および半島南部でしか見つかっていません。「倭国・倭人を考える」で述べた倭人の足取りと一致します。アマテラスがニニギに持たせたのもこの鏡ではないでしょうか。
昨年(2015年)の5月に春日市須玖タカウタ遺跡で多紐細紋鏡の鋳型が発掘されました。国内最古の銅鏡鋳型です。これまで出土した多紐細紋鏡はすべて朝鮮半島製で、土の鋳型だと考えられていますが、この鋳型は石製で、土製のものに比べやや線が荒い印象です。この鋳型を使った鏡は現在のところ発見されていません。
多紐細文鏡(朝鮮半島製) | 国産多紐細紋鏡の鋳型(春日市 須玖タカウタ遺跡) |
5 奴国と伊都国の王墓
吉武高木遺跡の次の世代、須玖・岡本王墓(福岡県春日市)や三雲南小路王墓(福岡県糸島市(旧前原市))からは大量の前漢鏡が出土しています。漢との交流が始まったからなのでしょう。両王墓はほぼ同時代のもので、57年の「倭奴国」の朝貢の時代の王墓です。
須玖(すぐ)・岡本遺跡は福岡市南区とその南に隣接する春日市一帯に広がる、南北2km、東西1kmの広大な遺跡です。弥生中期から後期の遺跡と考えられています。武器などの青銅器工房跡やガラス工房跡などが整然と並び、弥生銀座あるいは弥生のテクノポリスとも称されています。拡大期の奴国の中心地と考えられており、その王墓は金印をもらった王の墓の可能性があると考えています。
王墓は「D地点」と称されています。明治32年、民家の庭にあった長さ3.6m幅2m厚さ30㎝の巨石を動かしたところ、その下から大量の副葬品を伴った甕棺が現れました。当時のことですから詳しい調査はされてませんが、前漢鏡32面以上、銅剣・銅鉾・銅戈(か)、ガラスの璧・勾玉・管玉などが出土しました。
甕棺を覆っていた巨石は現在、春日市の「奴国の丘歴史公園」に移設されています。
墳丘墓保存施設(奴国の丘歴史公園) | |
須玖・岡本遺跡周辺図 | 王墓の上石(奴国の丘歴史公園) |
伊都国側の王墓、三雲南小路王墓からは2基の甕棺が出土しています。
最初に発見された甕棺は文政2年(1822年)で男王墓と見られています。時を隔てて昭和49年(1974年)に二つ目の甕棺が発見されました。副葬品から女王の墓と考えられています。その後平成になって、二つの甕棺を取り囲むような周溝の跡が発見されました。
この王墓周辺にも多くの弥生遺跡が点在し、ここが伊都国の王都だと考えられています。二つの甕棺からは、前漢鏡が両墓合わせて53枚以上、銅剣・銅鉾・銅戈(か)、ガラスの璧・勾玉・管玉などが出土しました。女王と見られる甕棺からは武器は出土せず、多くのアクセサリーが出土しています。
この王墓のすぐ裏手に「細石(さざれいし)神社」があります。主祭神は木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤヒメ)、ニニギの后です。そのため、この王墓を「ニニギ夫妻の墓」とする説もあります。
しかし、私はニニギの子、日子穂穂手見命(ホホデミ)の墓だと考えています。古事記に「ホホデミは高千穂の宮で五百八十年間を過ごした。御陵(みささぎ)は高千穂山の西にある。」と書かれています。
後にも述べますが、「高千穂山」は伊都国の高祖山、「高千穂の宮」はその中腹にある「高祖神社」でこの王墓は高祖山の西にあたります。
三雲南小路遺跡(福岡県糸島市・右が王墓、左が女王墓) | |
三雲南小路遺跡周辺図 | 細石神社(福岡県糸島市) |
伊原鑓水(いわらやりみず)遺跡は三雲南小路遺跡から数十mのところにある、江戸時代天明年間(1781~88年)に発見された遺跡です。出土品は残されていませんが、三雲南小路遺跡の調査をした青柳種信という人が40年前の発見についての聞き取り調査を行い、その資料とともに付近の農民が保管していた鏡片27枚、巴形(ともえがた)銅器2つの拓本を残しています。拓本から判明した鏡は全て前漢後期から後漢前期の鏡で、これによりこの王墓は1世紀後半~2世紀初頭のものと推測されています。
ちょうど「帥升等」の朝貢の時期と重なります。この時代の「奴国」側にはこれに匹敵する王墓は発見されていません。
平原王墓は、また時代が少し下がります。古代史ファンなら誰でも知っていると言っていいほど有名な王墓です。
「耳とう」と呼ばれるわが国唯一の古代中国製イアリングや多くのアクセサリーなどの出土品から被葬者は女性だと考えられています。
出土した鏡の枚数は弥生時代としては国内最多の40枚で、国内最大の直径46,5㎝の鏡5枚も出土しています。この鑑の円周はおよそ八咫(やた=約18cm×8)にあたり、発掘に携わった地元の古代史研究家、原田大六氏はこれぞ「八咫の鏡」と称しています。全て国宝です。
平原遺跡(福岡県糸島市) |
直径46.5㎝の鏡(内向花文鏡) (糸島市 伊都国歴史博物館蔵) |
この王墓が造られた時代、被葬者が女性であること、この墓の軸線が朝日が昇る方向(日向峠)を向くこと、などから「卑弥呼の墓」と言う人もいます。「卑弥呼」を「日の巫女(みこ)」と解釈しての説です。
平成26年6月のNHK歴史ヒストリアでは大和纏向(まきむく)遺跡の箸墓(はしはか)古墳とともに、この墓を卑弥呼の墓の候補としていました。
番組を見た方は覚えているでしょうか、棺を取り囲んだたくさんの巫女たちが、トランス状態になったのち、いっせいに鏡を床にたたきつけて割っていました。全ての鏡は人為的に割られた状態で見つかっています。
これは「破鏡」と呼ばれていて、甦り(よみがえり)を封じ込める意味があると理解されています。北部九州に特有の習慣で、20例ほど見つかっていますが、その他の地域では確認されていません。
ところが、奈良県桜井市の茶臼山古墳では天井石の上の封土から大量の破鏡が見つかりました。
この意味については、後日考えてみたいと思っています。
6 ホアカリの降臨
天孫降臨と言うとニニギノミコトの降臨を指しますが、降臨したのはニニギだけでは無いのです。
「先代旧事(くじ)本紀」という古書には、「アマテラスは「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」を降誕させた。」 と記述されています。
「天照国照彦天日明櫛玉饒速日尊(アメテル クニテル ヒコ アメホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト)」とはおそろしく長い名前です。古事記に出てくるニニギの兄の名は「天火明(ホアカリ)命」ですから、神武東征の際に出てくる「櫛玉饒速日(ニギハヤヒ)尊」と名前が合体したのだろうと言われています。
「先代旧事本紀」には降臨するホアカリの護衛に「五部の人」を付け、その五部に人の下に「五部の造」を付け、さらに「天つ物部(もののべ)25部人」を伴ったと記録しています。
ニニギの護衛は「天つ物部5部人」だったとされていますので、ホアカリこそ降臨の本隊だったのでしょう。「物部」は「もののふ」の語源だといわれています。
北九州市の西に遠賀(おんが)川という川があります。この川は古代では現在の田川市のあたりまでの湾だったことが判っています。「古遠賀湾」と呼ばれています。
古遠賀湾イメージ(現在の地図に海面を4m上昇させて作成) |
この遠賀川周辺には、この物部25部人に由来すると思われる地名が数多く残っています。
加奈布→金生、布多多→二田、伊無美→生見、止布知→十市、爾比岐多→新分、赤間→赤間、聞→企救などです。
大和地方の初期の弥生土器は、遠賀川流域の土器と共通の特徴があるそうです。これが「邪馬台国東遷説」の根拠のひとつにもなっています。
「邪馬台国東遷説」は支持しませんが、ホアカリが古遠賀湾に降臨した後、その子孫の一部が大和に移ったとは考えられます。
飯塚市の「立岩遺跡」の甕棺墳丘墓からも多数の前漢鏡(ここの鏡はとても美しい鏡です)が出土しており、「須玖・岡本遺跡」や「三雲南小路遺跡」と同時代の遺跡だと言われています。ホアカリの子孫たちの遺跡ではないかと考えています。
遠賀川支流の犬鳴側のほとりに立つ「天照(あまてる)神社」は、ホアカリが笠置山に降臨したことを伝えています。「天照」は一般にはアマテラスではなくホアカリを指し、全国にホアカリを主祭神とする神社があります。アマテラスとは大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)という女性の神を指しますが、女性が太陽神とは考えにくく、「ホアカリこそ真のアマテラス(アマテル)ではないか」と考えています。
天照(あまてる)神社(福岡県宮田町) | 笠置山(福岡県宮田町) |
7 再び志賀島の金印について
この先はあくまでも仮説です。
倭奴国=倭の奴国(なこく)はニニギやその子孫たちのクニです。
奴国はその後この地で力を持った勢力によって支配され、王家は伊都国に追いやられたのではないか、と 考えています。
彼らは奴国王家に「漢委奴国王」を差し出せと迫ったでしょう。
志賀島の民はニニギと共に高天原からやってきた海運技術に優れた民、安曇氏です。彼らが印を志賀島に隠したのではないか、そう考えています。
印を囲んでいた巨石は偶然そこにあったのではなく、目印とするためのものの可能性が高い、と言われています。
志賀島にある志賀海神社の神事「山誉め祭り」の際、地元民の中から選ばれた袮宜(ねぎ)の方々により祝詞(のりと)が奉納されます。その祝詞は「君が代」そっくりです。
「君が代」は古今和歌集の中から採られたと言われてますが、詠み人知らずで、本来は「君が世は」の部分は「わが君は」だったと言われています。
「千代=千代の松原(現存しないが福岡市博多区付近)」、「細石(さざれいし)=細石神社(旧前原市)」、「巌(いわお)=伊原・岩羅(いわら)(旧前原市)」、「苔のむすまで=苔牟須売神(こけむすひめ)(桜谷若宮神社(旧糸島郡志摩町)の祭神)」と、天(あま)氏の領域の地名などとの共通性は単なる偶然でしょうか。
多紐細文鏡はなぜか1面だけ長野県で発見されています。発見状況は不明です。
長野県安曇野市は志賀島の安曇族が移り住んだと言われています。当地の穂高神社縁起もそう伝えています。海の民であったことを忘れないために今も「御船祭り」が続けられています。
第4回 了