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まほらま逍遥(第5回) 川口 博2016.11
まほらま逍遥
― にわか古代史ファンの古代散歩 ―
川口 博
第5回 沖ノ島を考える
「多岐亡羊(たきぼうよう)」という言葉があります。その意味は、Goo辞書には「枝道が多いため逃げた羊を見失うように、どれを選んだらよいのか思案にあまることのたとえ。」とあります。
まほらま逍遥も第4回からずいぶん時間が経ってしまいました。実は原稿はすでに第8回までできていました。
第5回目のテーマはいよいよあの「邪馬台国」、の予定でした。第8回まで書いていたということは、邪馬台国よりももっと後の時代のことの事まで書き進めていたということですし、私の頭の中にはその先の道もイメージできていました。
その間、暇を見つけては様々な文献を読みあさっていました。そうしているうちにふと、私が歩んでいる古代の道の先には本当に「羊」がいるのだろうか?という疑問が出てきました。
そこで、もう一度分岐点に立ち戻り、進もうとしている道が本当に正しい道なのか考えてみようとしました。
が、いくつもに分かれた道は、どの道の先も霞(かす)んで見えます。まさに多岐亡羊です。
考えてみれば、はるか昔、本居宣長の時代から幾多の研究者が日本の古代を研究し、現代においても未だ百家争鳴という分野です。昨日、今日古代史に目覚めた私に、本当に羊がいる道を見極められるはずも無いのです。
どの道に羊がいるか、これは、今後もじっくり取り組むとして、「まほらま逍遥」は「逍遥」の意味するように、気ままにあちらこちらの古代遺跡や神社などを紹介しながら、その背景を考えてみようと思います。
1.宗像・沖ノ島 大国宝展
9月18日(2016年)から、宗像大社 神宝館で「宗像・沖ノ島 大国宝展」が始まり、さっそく、20日に見に行きました。
地元のRKBという放送局の主催で、私が展示品を見ていると、そのうしろで、「今日感テレビ」というローカル番組の生放送取材がはじまりました。私のうしろ姿くらいはテレビに映ったかも知れません。
宗像大社というのは、福岡市と北九州市のちょうど中間あたりの宗像市にあり、宗像三女神、つまり田心姫神(たごりひめ)、湍津姫神(たぎつひめ)、 市杵島姫神(いちきしまひめ)を主祭神とする神社で、全国七千社あまりの宗像神社や、厳島神社(広島の厳島神社も)などの総本社です。
「日本書紀」によると、素戔嗚尊(スサノオ)が、姉の天照大神(アマテラス)に別れの挨拶に来ます。これを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると疑った天照大神は、天の安川で、素戔嗚尊に誓約(うけい)を強いて、それぞれが生んだ子で、素戔嗚尊に悪しき心がないことを知ります。このときアマテラスがスサノオの刀から生み出したのが宗像三女神です。
記紀によると、アマテラスが三女神を降臨させる際、
「宜(よろ)しく道の中に降(あまくだ)り居(ま)して天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて、天孫(あめみま)の爲に祭られよ【奉助天孫而爲天孫所祭】」
との命令をします。
「あめみま」とはアマテラスの孫、ニニギから続く歴代天皇の系譜のことです。
宗像大社(辺津宮) 「奉助天孫 而爲天孫所祭」と書かれた扁額
宗像大社は田心姫を祭る沖ノ島の沖津宮、湍津姫を祭る宗像大島の中津宮、市杵島姫を祭る宗像市田島の辺津宮の三社で構成されます。
この三社を結ぶ線を延長すると、朝鮮半島東南部に当たります。古代に「新羅(しらぎ)」とよばれた地域です。このルートは「海北道中」と呼ばれています。
「日本書記」には
「日神(=アマテラス)の生みし三女神を以て葦原中国(あしはらなかつくに)の宇佐嶋(うさ しま)に
降り居さしむ。今、海北道中(うみきたのみちなか)に在り。号して道主貴(みちぬしのむち)という。」
と書かれています。宇佐島は今の沖ノ島だと言われています。
「貴(むち)」という尊称が付く神は、道主貴の他にはおおひるめむち(大日靈女貴=アマテラス)と大己貴(おおなむち=オオクニヌシ)しかいません。
海北道中
2 沖ノ島
沖ノ島は上の地図のように、宗像市の60kmほど沖に浮かぶ絶海の孤島で、周囲は約4km。全島が宗像大社の境内地で神官一人が交代で詰める女人禁制の無人島です。
一般の人は、毎年5月25日の大祭に、200人ほどが海水で禊(みそ)ぎを終えたのち入れるだけです。
この島には古代からの祭祀のあとがそのままの形で残っており、祭祀に使われた品々はそのまま手付かずで残っていました。
これは、この島が「お言わずの島」とも言われるように、「島で見聞きしたことは一切他言してはいけない。」「一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできない。」という厳しい掟が守られてたためだと言われています。
沖ノ島 入島前の禊ぎ
沖津宮 古代祭祀場跡(半岩陰半露天祭祀場)
昭和29年から本格的な学術調査が行われ、この祭祀跡は四世紀後半から十世紀初頭にかけて連綿と続けられたものであることが判りました。祭祀が行われた場所も時代の移り変わりと共に、巨岩の上での祭祀(「岩上祭祀」)、岩陰での「岩陰祭祀」、上の写真のような「半岩陰半露天祭祀」、それまでの巨岩から離れた平場での「露天祭祀」と変遷しているようです。
学術調査によって、中国製の青銅鏡や、朝鮮半島の新羅(しらぎ)製の金製指輪・金銅製馬具など約8万点の遺物が出土しました。これらはすべてが国宝に指定され、以来、沖ノ島は「海の正倉院」とも言われるようになりました。
これらの国宝は宗像大社宝物殿に保管され、今回の「大国宝展」はその中の一部が展示されました。
金製指輪 金銅製歩搖(ほよう)付雲珠(うず) 金銅製龍頭 奈良 三彩小壺
3 新原・奴山古墳群
宗像市の東に隣接する福津市に「新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群」という大小50基ほどの古墳群があります。
築かれたのは5世紀後半から6世紀後半で、被葬者は宗像氏一族と言われています。
宗像大社三社とこの新原・奴山古墳群を併せて『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』として、2017年の世界遺産審査予定物件となっています。
新原・奴山古墳群と宗像大社の位置 新原・奴山古墳群
宗像市の西にある遠賀川(古代では遠賀湾)一帯は物部(もののべ)氏の本貫地と言われています。物部氏は「もののふ」の語源とも言われていますが、詳しくは解っておらずここでは省略します。
おそらく北部九州から大和盆地に進出した大和王権は、物部氏の武力を背景に勢力を拡大していきます。このことは「神武東征」という神話として記紀に描かれています。
大和王権は、製鉄をはじめとする先進的な技術を持つ朝鮮半島との交易を望みます。
古代からの朝鮮半島と日本列島を結ぶルートは、魏志倭人伝にも書かれているように、対馬、壱岐を経由するルートでした。最も安全なルートです。ところが、このルートは邪馬台国から繋がる筑紫王権によって塞がれています。筑紫王権は親百済です。
(現在の私は、簡単に言えば「邪馬台国(倭国)が筑紫王権となった。大和王権は当初は筑紫王権の
分派だった。」と考えています。)
そこで、親新羅の大和王権は海運技術に優れた宗像海人(あま)族と結びつき、いわは密貿易ルートである「海北道中」を確立した、のではないかと考えています。
大和王権と結びついた宗像氏は強大な力を持つようになり、その後の日本列島に大きな影響を持つようになったのです。
4 宮地嶽神社
新原・奴山古墳群の近くにに「宮地嶽(みやじだけ)神社」という神社があります。主祭神は北部九州に色濃い足跡を残し、戦前の皇国史観ではスーパーヒロインだった「神功(じんぐう)皇后」です。
神功皇后については改めてその足跡を辿ってみたいと考えているので、今回は彼女には触れません。
宮地嶽神社は日本一の大注連縄(しめなわ)などで知られる神社ですが、今の時期だと海に沈む夕日と鳥居、参道、本殿が一直線に並ぶ「光の道」が有名です。「光の道」は2月20日頃と10月20日頃に見ることができます。
宮地嶽神社 光の道
この宮地嶽神社の裏手に「奥の宮八社」と呼ばれる、八つのお社があります。その中のひとつ、「不動神社」は巨石古墳がお社になっています。この古墳は宮地嶽古墳と呼ばれ、横穴式石室の長さは22mと、奈良県飛鳥村の石舞台古墳をしのぐ規模です。
不動神社の石室お社は通常は入れませんが、春、秋の年に二回だけ神事が行われ、そのときだけ一般の方々も中に入ることができます。
不動神社入り口(後ろの森が宮地嶽古墳) 石室内のお社
この古墳からは馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、そのうち十数点が国宝に指定されています。それらの副葬品から6世紀末から7世紀始めに築造されたと考えられています。
金銅製頭推太刀柄頭 銅鋺及び銅盤
宝 冠 金銅製鞍橋覆輪金具(馬具) 金銅製壷鐙(馬具)
5 宗像の君と天武天皇
この古墳の被葬者は築造時期、規模、豪華な副葬品から「宗像(宗形)徳善」ではないか、と言われています。 宗像徳善の娘、「尼子姫」は大海人(おおあまと)皇子、のちの第40代「天武天皇」の最初の后です。天武天皇は672年、先代天智天皇の太子・大友皇子を討って天皇位に付きました。これが古代最大の内乱、「壬申(じんしん)の乱」です。
天武天皇は「正しい歴史」を後世に残すために「日本書記」の編纂を命じたのですが、権力者の「正しさ」はいつの時代も真実とは限りません。「天武天皇はその皇位継承を正当化するために「日本書記」の編纂を命じた。」とする考えが、今や常識と言っていいかも知れません。
「日本書記」では天武天皇は天智天皇の弟、ということになっています。ところが、「天武は天智よりも年長。従って、天武は天智の弟では無い。」とは多くの方々が指摘するところです。天武の皇后、後の「持統(じとう)天皇」は天智の娘ですし、天智は他に2人(3人との説もある。)もの娘を天武に嫁がせています。
大海人皇子(天武天皇)はその名が示すように「海人(あま)族=宗像氏」の王だった可能性がある、とも現在は考えています。
筑紫王権は筑後の福岡県八女市を本拠地としていましたが、「筑紫の君磐井(いわい)」が527年に「継体天皇」に討たれたのち、筑後系王権が弱体化し、代わって宗像系王権が勢力を強めて行ったのではないか、と考えています。
宮地嶽古墳は天武の父(宗像の君?)あるいは、天武そのものの墓である可能性もあるのです。
(天武・持統合葬陵は奈良県明日香村の「檜隈大内陵」に比定されていることは承知していますが。)
6 筑紫舞(ちくしまい)
宮地嶽神社で年に一度ほど宮司や神職により奉納される「筑紫舞」という不思議な舞があります。以下、日本経済大学のHPから説明文を拝借します。
『「筑紫舞」とは、奈良時代(8世紀)大和朝廷で宮廷の舞として舞われていたものが平安時代以降に歴史の表舞台から姿を消し、1200年の時を越えて近年復活された伝承芸能です。
本来、神様に捧げられる舞としてできた「筑紫舞」は、歴史の表舞台から消えたあとも「傀儡子(くぐつ)」と呼ばれる放浪芸能者によって脈々と伝承されてきましたが、戦前になって九州の盲目の筝曲家・菊邑検校(きくむらけんぎょう)という人物から、神戸の造り酒屋の娘、山本光子(のちの西山村光寿斉)という一人の女性にその舞が伝承され、現代に蘇ることとなりました。』
西山村光寿斉さんは2013年に永眠され、現在は二代目宗家・西山村津奈寿さんをはじめとする数十人のお弟子さんによって舞の継承が行われ、各地で奉納・公演されています。
戦前、宮地嶽古墳内で、当時の芸能者達によって筑紫舞が舞われた場に少女期の光寿斉が同席しており、その縁で後年宮地嶽神社へ数曲の舞を伝授する事となったようです。
宮地嶽神社での筑紫舞
筑紫舞の中心をなす舞は、「翁(おきな)の舞」というもので、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」のバージョンがあるそうです。
この舞での「翁(おきな)」は能などの「翁(=老人)」ではなく、各地の長官とか、各地の民俗芸能を代表する人物のようです。
基本となる舞は「三人立」で、「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」の三人翁です。 「肥後」は熊本県、「加賀」は石川県(古代では越(えつ)の国)でしょうが、「都」とはどこでしょうか。どうも奈良や京都ではなさそうですし、福岡県の京都(みやこ)郡は「豊(とよ)の国」ですから「筑紫舞」には変です。
西山村光寿斉さんが少女時代、神戸で師匠の菊邑検校(きくむらけんぎょう)に筑紫舞を習われた時、「都」とはどこかを聞いたそうです。その時、菊邑検校は「私は知っていますが、今は申せません。」と強い調子で返答されたそうです。
「筑紫舞」での都ですから、「都」は「筑紫」だったのではないでしょうか。
もう一つ不思議な点は、この舞には明白な中心人物がいて、その中心人物は常に「肥後の翁」で、彼の舞を中心に他の翁の舞が進行します。
この点に関しても、菊邑検校は自分が肥後の出身だからそうしているのではなく、「初めからこのように舞うようになっております。」という教えだったそうです。
これらの問題は熊本県の「江田船山古墳」、埼玉県の「稲荷山古墳」と東西何千kmも離れた古墳から出土した刀剣に刻まれた、「ワカタケル大王」とは誰か、を考えるヒントになるように思えます。
江田船山古墳出土 銀象嵌銘入り刀剣 稲荷山古墳出土 金象嵌入り刀剣
(東京国立博物館) (さきたま史跡の博物館)
第5回 了