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まほらま逍遥 (第2回) 川口 博2016.01
まほらま逍遥
― にわか古代史ファンの古代散歩 ―
川口 博
第2回 天孫降臨を考える
まほらま逍遥 最初のテーマとしては、「天孫降臨」について考えたいと思います。
天孫降臨という言葉は、一度は聞いたことあると思います。
天照大神(アマテラスオオミカミ)が、大国主命(オオクニヌシノミコト)に
「あなたはあの世のことを治めなさい。この世のことは私の子孫が治めます。」
と、身勝手な要求をします。これが「国譲り神話」ですが、大国主命は国を譲り、その代わりに出雲大社を建ててもらった、ということになっています。
このあたりのことはまた機会があったら考えることにして、アマテラスは自分の息子、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に、地上である葦原中国(アシハラナカツクニ)に降りることを命じます。
ミミさんは気が乗らなかったのか、自分にはちょうど子供ができたところなので、この子が大きくなったらこの子を地上に遣わしましょう、と、うまーく回避します。
こうして、アマテラスの孫、邇邇芸命(ニニギノミコト)が地上に降ります。これが天孫降臨です。
もちろんニニギは単独で降臨した訳ではありません。この事についてはまた後に考えたいと思います。
先ごろご結婚された高円宮典子様のご主人の出雲大社宮司、千家国麿さんのご先祖は、天穂日命(アメノホヒノミコト)とされています。ミミさんの弟で、ニニギの先発隊と考えられています。
1 天孫降臨の地はどこか
通説ではニニギノミコトは日向(ヒムカ、ヒュウガ)の国、今の宮崎県の高千穂に降臨したことになっています。
また、鹿児島県の高千穂に降臨した、という伝承もあります。
たしかに、宮崎県の高千穂町は山々に囲まれ、深い渓谷もあって神秘的な雰囲気のあるところです。
天照大神がその弟、須佐之男命(スサノオノミコト)の粗暴さを嘆き、隠れたと言われる天の岩戸や、神々が天の岩戸からアマテラスを出させる方策を相談した、安(ヤス)の川原までもあります。
天岩戸神社(宮崎県高千穂町) 安の川原(宮崎県高千穂)
この神社から川を挟んだ対岸に天の岩戸があると
宮司さんは説明するのですが、木が覆い茂って
正直よく見えません。
でも、考えてみませんか。ニニギは2~3人で降臨した訳では無いでしょう。大勢の家来を引き連れ降臨しないと、地上の人々の抵抗を抑えられません。そして、その地に永住しようとしたら稲作ができる広い平原こそが必要なのです。残念ながら、宮崎の高千穂のような山奥でなくても、広い土地はいくらでもある時代なのです。
では、ニニギはどこに降臨したのでしょうか。
古事記には「竺紫(チクシ)の日向の高千穂の九士布流多気(クシフルタケ)」に天降った、と書かれています。
日本書紀は本文と「一書に曰く」として最大7つだったかの別伝が書かれています。
本文は「日向の襲の高千穂峰に天降りませぬ」となっているのですが、一書第一には「筑紫の日向の高千穂の槵觸(クシブル)の峯に到る」となっています。
記紀(古事記、日本書紀)には、 竺紫あるいは筑紫(チクシ・ツクシ)という地名は何度も登場します。その総てはあきらかに福岡県の西半分、つまり筑前・筑後の領域の呼称です。ところが、天孫降臨神話や神武東征の出発点は筑紫=九州と一般に解され、日向と言うことから宮崎県や鹿児島県の伝説へと繋がったと思われます。
しかし、古代の人々が九州全体を筑紫と称した形跡はありません。
では、筑紫に日向はあるのでしょうか。
それがあるのです。
福岡市西区の早良(さわら)平野と、その西側に隣接する糸島市との間に標高数百メートルの山地があり、そこに日向峠という峠があります。日向はヒナタと読みます。
また、その峠あたりを源流として室見川と合流する川は日向川と言います。
黒田長政がこの付近の農民に宛てた手紙に、地名としての「ひなた」や「くしふる山」という記述が残っているそうです。
筑紫に日向もクシフルタケもあったのです。
日向の近くにきれいな円錐形をした飯盛山という山があります。ふもとに飯森神社という神社がある標高383mの山です。私はこの飯盛山がクシフルタケだと考えています。
2 ニニギの言葉
ニニギがクシフルタケに立った時の言葉が古事記に残っています。
「この地は韓国(カラクニ)に向かい、笠沙の御前(カササのミサキ)を真来(マキ)通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、この地は甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」
本居宣長をはじめ、従来の研究者たちを悩ませてきた言葉です。
宮崎県や、鹿児島県は韓国(朝鮮半島)には向かっているとは言えません。降臨の地を宮崎や鹿児島とするかぎりこの謎は永遠に解けません。
筑紫のクシフルタケは朝鮮半島に向かっています。何も遮るものがなく朝鮮半島に正対しています。
しかし、なぜ朝鮮半島に向かっていることが「甚吉き地」なのでしょうか。そのことはまた改めて考えてみましょう。
「笠沙の御前」とは何でしょうか。「御前」については「ミマエ」と読む説もありますが、日本書紀には「吾田の長屋の笠狭埼」とあり、御前(ミサキ)=岬だろうと考えています。
現在の博多湾には岬と呼べるものはありません。しかし、地層の堆積状況や住吉神社(福岡市博多区)に残る古地図から、当時はもっと海進していて、今の福岡城址は半島の先端だったと考えられています。この半島が「笠沙の御前(岬)」だ、と多くの研究者が述べています。
住吉神社 古地図
(北を上にするためひっくり返しています)
しかし、ニニギは一種の感慨をもって先の言葉を述べています。福岡城址半島に感慨を持つ理由がありません。
先日、志賀島(しかのしま)にある志賀海(シカウミ)神社のことを調べていてハッとしました。志賀海神社の神域に「御笠山」「衣笠山」という記述があるのです。志賀島の中に「大戸(オオド)」「小戸(オド)という地名もあったようです。
志賀島(シカノシマ)というのは博多湾を覆うように突き出た、「海の中道」と呼ばれる半島の先端にある島で、現在は道路1本で海の中道と繋がっています。
「漢委奴国王」の金印が出土した場所としても有名です。
古事記によれば、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、先に亡くなった妻の伊邪那美命(イザナミノミコト)に会いに黄泉(よみ)の国に行きます。しかし、妻のあまりにも変わり果てた姿に恐れをなし、急いで逃げ帰って「竺紫の日向の橘の小戸の檍原(アワキハラ)」の海に浸かって禊祓い(みそぎはらい)をします。
そのとき生まれたのが住吉三神の元とされる綿津見(ワタツミ)三神であり、アマテラスやスサノオらの神々です。
筑紫の日向=福岡市又は糸島市説をとる方の多くはこの「小戸」を福岡市西区の「小戸」と考えています。そこにある「小戸大神宮」の由緒書にもそう書かれています。
しかし、この「小戸」が西区の小戸ではなく、志賀島の「小戸」だとすると、海人(アマ)族・安曇(あずみ)氏発祥の地とされる志賀海神社がここにある理由が解るように思えます。
そして、「御笠山」「衣笠山」の名が示すように、この地が「笠」という地名を持っていたのなら、ニニギが「笠沙の御前を真来通りて」と感慨を込めて言った意味が解ります。海の中道こそ笠沙の御前(ミサキ)、ニニギの祖先の神たちが生まれた地ではないでしょうか。
海の中道先端の島が志賀島。 旧志賀海神社 沖津宮矢印の位置に鳥居が
右が玄界灘、左が博多湾。 見える。主祭神は綿津見三神。
海の中道は上の写真のようにほとんど平坦です。「住吉神社 古地図」のように当時はもっと海面が高い位置にあったと考えられており、それでは海の中道半島は沈んでしまうのではないか、とも考えました。そこで「flood map」というサイトで海面を3mほど上昇させてみたのですが、かろうじて半島としての形を留めます。半島付け根あたりには志賀海神社と同じく綿津見三神を祀る「綿津見神社」や「志式神社」もあります。笠沙の岬が海の中道かどうかは確信が持てませんが、イザナギが禊ぎをしたのはこちらの小戸ではないかと考えています。
綿津見神社(福岡市東区) 志式神社(福岡市東区)
3 吉武高木遺跡
先ほど私は飯盛山がクシフルタケだと述べました。
その大きな理由は、その山すそにある吉武高木遺跡をはじめとする周辺遺跡群がニニギ達の遺跡だと考えているからです。
吉武高木遺跡は東側が開けていますので、朝になるとたちまち朝日が差し込み、西側は小高い山地ですが夕日にも照らされます。「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」です。
吉武高木遺跡
(奥の一番高い山が飯盛山)
吉武高木遺跡は、飯森山の山すそ、室見川中流域の扇状地にあります。背後には佐賀県境となる背振山系が控える、古代王都の立地条件がそろった典型的な場所です。
発掘調査ののち埋め戻され、現在は写真のように何もない原っぱです。
このあたりは吉武遺跡群として知られ、高木遺跡以外にも「吉武大石遺跡」、「吉武桶渡遺跡」など弥生の遺跡群があり、掘れば何か出てくるという地域です。 「吉武高木遺跡」は弥生前期末から中期初頭(紀元前300年から200年頃)の遺跡で、王墓と見られる遺構からは勾玉、鏡、剣が揃って出た日本最古の遺跡として知られています。
福岡市教育委員会は「早良(さわら)王墓」と称していますので、便宜的にこの名称を踏襲します。
(「王墓」とは周辺のお墓より抜きんでた副葬品が出る墓で、正式には「厚葬墓」といいます。)
吉武高木遺跡 周辺地図
吉武高木遺跡 案内板 早良王墓出土品(福岡市博物館蔵)
古事記には、アマテラスがニニギの降臨に際し、「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、草薙(くさなぎの)剣」を授けたと書いてあります。
これらの神器はそれがオリジナルかは別として、現在の天皇家にも伝わる宝物です。
なお、記紀には銅鐸の記述はありません。つまり、記紀は銅鉾(ほこ)・銅剣・銅戈(か)文化を持つ側の記録だと言えます。
この王墓から出た鏡は「多紐細文鏡」(たちゅうさいもんきょう)というタイプの鏡で、わが国で出土する鏡としては最も古いタイプの鏡です。 多紐細文鏡については、改めて考えてみたいと思っています。
またこの王墓から東に50~60mの地から、「高殿」と呼ばれるわが国最古の大型建物の跡が発見された事により一躍有名になりました。
高殿模型
(福岡市埋蔵文化財センター蔵)
日本書紀に「天津彦彦火邇邇芸尊(ニニギノミコト)崩ず。因りて筑紫の日向の可愛の山陵に葬す。」と書かれています。
この王墓はニニギの墓なのでしょうか。
宮下文書(みやしたもんじょ)と呼ばれる古文書があります。山梨県富士吉田市の旧家、宮下家が保管してきた、富士山の浅間(せんげん)神社秘蔵の古記録、古文書です。古事記よりももっと古い時代からの詳細な記録が残されているが故に、権威筋からはその信憑性を疑われてもいます。
(私が言う「権威筋」とは、学者や著名研究者など、自分の説が曲げられる可能性のある資料や説を排除しようとする勢力です。古代史を勉強していて、これらの人々がいかに真実の探求に妨げになっているか実感しています。)
その宮下文書には「ニニギの長男、火照須尊(ホテルスノミコト)が高天原(タカマガハラ)の金山の陵より父母(つまりニニギとその妻 木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤヒメ))の二柱の御霊・剣・鏡を筑紫の山裾の長井宮に遷し、その後、霊・剣・鏡を可愛の山陵に埋葬した。」との記録があります。
発掘された高殿が宮下文書の「長井宮」だとすれば、金山陵より高殿へ遷し、その後その西にある早良王墓に埋葬された、と遺跡と記録がみごとに一致します。
早良王墓、正式には吉武高木遺跡3号木棺墓と言いますが、遺跡状況からその木棺は現在の棺おけの妻側の板が脚状に長かったと推測されています。遺骨は無く、勾玉や管玉、剣などの武器、鏡が整然と並べられた状態で発掘されました。
この遺跡にはこの王墓以外に3基の木棺墓と34基の甕棺(かめかん)墓が出土しています。
3号木棺墓以外の木棺は「割竹型」と呼ばれる、ちょうど両端に節のある竹を二つに割ったように丸太をくりぬいたタイプのもので、同時代の厚葬墓としては一般的です。
この王墓の木棺の側面の板は脚状に長く、現在の棺おけと比較してみても重い遺体を収めるには不合理です。
この木棺は棺ではなく、もともとはニニギの遺品を入れて神殿(長井宮)に祀られていた祭壇で、これをそのまま埋葬したのではないかと考えています。
宮下文書にはニニギは筑紫を平定した後、高天原に帰り、そこで死去し埋葬されたと記録されています。
では高天原(タカマガハラ)とはどこにあったのでしょうか。
次回はこの問題について考えてみたいと思います。
第2回 了