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まほらま逍遥 -にわか古代史ファンの古代散策- (第6回) 川口博2017.08
まほらま逍遥
― にわか古代史ファンの古代散歩 ―
川口 博
いよいよ今回は、よく「古代史最大の謎」などと言われる、邪馬台国を考えようというテーマです。
とは言え、邪馬台国の候補地はそれこそ北は関東から南は沖縄まで全国各地にあるのです。
なぜ、そんなに候補地がたくさんあるのかと言えば、いわゆる「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」をそのまま読んでも、「邪馬台国はここだ!」とは確定できないからです。あちらを立てればこちらが立たず。だから、ここはこう解釈しよう。その解釈いかんによって、候補地は無限に出てくるのです。
そんな中で邪馬台国の候補地として特に有力な説は畿内説と九州説です。まずは畿内説を代表する「纏向(まきむく)遺跡」を歩いてみましょう。
1 纏向(まきむく)遺跡
纏向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての広大な遺跡です。まだ全体の2%ほどしか発掘が進んでいませんが、柵や砦で囲まれ、農耕具よりも土木工具が多く出土することから、日本最初の都市、あるいは初期ヤマト王権最初の都宮などとも言われ、現在のマスコミなどは「邪馬台国は纏向で決まり」といった感での報道がなされています。
纏向遺跡のイメージ (纏向デジタルミュージアムHPより) |
JR桜井線巻向駅の近く、辻地区というところで発掘された大型建造物の遺構は、その配列から神殿的性格が強く、「卑弥呼の居宮」という方もいます。
纏向遺跡 辻地区 | 大型建造物復元模型
(桜井市埋蔵文化財センター蔵)
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纏向遺跡からは九州から関東にかけての広範囲な土器類が多く発掘されています。
また、一帯は箸墓(はしはか)古墳や、ホケノ山古墳などの前方後円墳も多く、前方後円墳は纏向から全国に広がった、とする説もあります。
これらのことは、「纏向は既に日本全国を従えた邪馬台国の中心地だった」とする邪馬台国纏向説の大きな根拠となっています。
ホケノ山古墳 | 箸墓(はしはか)古墳 |
箸墓古墳は全長280mの巨大前方後円墳で、邪馬台国纏向説では「卑弥呼の墓」と言われています。
被葬者は宮内庁では第7代孝霊天皇の娘、倭迹迹日百襲姫(ヤマト トトヒ モモソヒメ)としています。モモソ姫は三輪山の神、大物主神(オオモノヌシ)の妻で、夜にしか現れない夫に昼間も会いたいと願ったのですが、昼間に見た夫の姿がヘビだったことに驚き、腰を抜かした拍子にその陰部を箸が貫いたことが原因で死んだ、との伝説があり、これが「箸墓」の語源と記紀には書かれています。
モモソ姫は霊的な能力が高かったようで、それが「卑弥呼=モモソ姫」説の根拠となっています。
しかし、中国や朝鮮半島との交流を示す鏡の類が九州では大量に出土しているのに対し、畿内では一面も見つかっていないこと、北部九州に比べて鉄製品の出土が圧倒的に少ないこと、箸墓の築造年代が当初言われていた3世紀中頃よりずっと後に築かれた可能性が高いこと、など邪馬台国纏向説を疑問視する方々も少なくありません。
畿内説の方々がよく「卑弥呼の鏡」と称する三角縁神獣鏡は中国では1枚も見つかっていません。
私も、魏志倭人伝を普通に読めば、畿内説は有り得ないと考えています。
2 魏志倭人伝
邪馬台国のことが最初に書かれたのは、一般に「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と呼ばれる、「三国志」の中の「魏書 第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」という中国の歴史書です。
三国時代とはあの魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備や諸葛孔明などが活躍した時代で、魏の後継王朝「西晋」の人、珍寿(チンジュ)が290年頃に書いたものです。
現代に残る全ての魏志倭人伝には「邪馬台国」という文字は無く、「邪馬壹国」となっています。 「壹」は「壱(イチ)」の旧字です。これを後世の書物などから「壹」はもともとは「臺」だったと考え、「邪馬台国」と表記するのが主流ですが、「壹VS臺」論争はまだ決着が付いていません。なお「台」は厳密には「臺」とは違います。しかし、ここでは一般的な呼び名である「邪馬台国」とします。
「邪馬台国がどこにあったか」という点に関しては、魏志倭人伝の道程記事から判断するしかないのですが、先ほど述べたようにその解釈は様々です。
しかし、その解釈も次の2点を前提にしないと、その候補地はそれこそ全国どこにでも持っていけます。
- 魏志倭人伝の一里は、一般に言われている約434mではなく、70~80mであること。(同じ魏志の韓伝に朝鮮半島の東西約300kmを400里と記していることからも明らかです。これを短里と称しています)
- 書かれた距離や日数、方向を自分の都合で読み替えないこと。
邪馬台国畿内説は、南と書かれているのを「東の間違い」としないと成立しない説です。
畿内説は以前には、龍谷大学図書館に所蔵されている「混一疆理図」(15世紀初頭に朝鮮で作られた世界地図)を根拠に、「15世紀以前の中国人は、本州は九州の南にあったと考えていた。」と主張していました。ところが、1988年に長崎県島原市の本光寺で、日本列島が本来の位置に描かれた「混一疆理図」が発見され、現在では、「龍谷大学図はスペースの関係で入りきらなかったのでこのように描かれた。」と結論付けられています。
(が、このことを知らないのか、ネット上ではまだまだ龍谷大学図を根拠として持ち出す人が度々います。)
魏志倭人伝
(宮内庁 紹熙本) |
混一疆理図
(龍谷大学図書館蔵) |
魏志倭人伝には、出発地である現在のソウル付近から邪馬台国まで「1万2000余里(≒900Km)」、経由地の半島南部の倭国領(現在の釜山付近か)まで「7,000余里(≒525Km)」と書かれています。そうすると、釜山から邪馬台国までは約375Kmとなり、直線距離で考えても熊本県や宮崎県までで、方向を読み替えなくても九州を出得ません。(1里を434mで考えると九州を通り過ぎてしまうので、畿内説は南を東の誤りとする訳です。)
実際には、対馬、壱岐、末廬国、伊都国などを経由しますので、福岡県南部、大分県南部までが南限だと考えています。
もっとも、距離と時間を足して考える方々もいらっしゃるので、その場合は北海道だろうが沖縄だろうがエジプトだろうが(!)好きなところに邪馬台国を比定できます。
末廬(マツロ)国=松浦(佐賀県唐津市付近)、伊都国=怡土(イト・福岡県糸島市の中の旧前原市)、と考えるのが一般的ですが、これも松浦や怡土などの古代地名を無視すれば、邪馬台国は九州内の好きなところに比定できます。これが、九州にも諸説あることの原因のひとつです。
3世紀頃の朝鮮半島
(半島南部は「倭」です) |
名護屋港(秀吉の朝鮮出兵地)
(写真中央の奥側) |
私自身は、末廬国は唐津付近で寄港地は名護屋港、伊都国は旧前原市、奴国は福岡市早良区および西区、不弥国は「ウミ=海」として博多湾岸と考えており、邪馬台国(女王の都)は博多の山(ヤマ)側、春日市から久留米市までの間にあった、と考えています。
そもそも「倭国」とは中国の正史では一貫して「九州」だと認識されていて、魏志倭人伝での
「女王國の東、海を渡ること千余里にしてまた國あるも、皆倭種なり。」が本州の事だと考えています。
3 九州の邪馬台国候補地
1) 平原遺跡(福岡県 旧前原市(現糸島市の一部))
一般的には伊都国と解釈される旧前原市は、古代遺跡の宝庫です。ここを邪馬台国とする説は少ないのですが、その中の平原遺跡1号墳を「卑弥呼の墓」と考える方は多くいます。
この墓の副葬品には武器がほとんどなく、ネックレスやブレスレット、漢の高貴な女性がピアスとしてつけていた 「耳とう」などが発見され女王墓であることは間違いありません。
また、日本一の大きさを誇る直径46.5センチの銅鏡5枚を含む40枚もの銅鏡が出土し、一つの墓から出た鏡の枚数も日本一です。1本だけ出土した鉄剣は長さ120㎝ほどで、卑弥呼が魏からもらった「五尺刀」の長さとも合います。
平原遺跡1号墳(福岡県糸島市) | 平原遺跡1号墳の破鏡
(糸島市歴史博物館ジオラマ) |
平原遺跡1号墳は全長が10mほどの方墳です。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩と記されています。1歩は1里の300分の1ですから短里だと25㎝、100余歩は30m程になります。箸墓はデカ過ぎ、平原は小さ過ぎですが、周溝(上の写真の柵の内側)を含めると径100余歩と言うこともできます。しかし、築造時期は3世紀始めごろとされており、それが正しければ卑弥呼の墓には早すぎるようです。
魏志倭人伝の卑弥呼が死んだ際の記述に「大いに冢(ちょう=塚)を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人」とあります。
同じ三国志の中の蜀志に、あの諸葛孔明の遺言として「山に因(よ)りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る。」と書かれています。「墳」は大きな墓、「冢(ちょう)」とは棺を納められる程度の墓です。
魏の曹操の墓ですら全長60m弱です。全長280mもある箸墓が卑弥呼の墓であるはずは無いのです。
2) 須玖岡本遺跡(福岡県春日市)
須玖・岡本遺跡は福岡市南部から春日市の丘陵部に広がる遺跡群で、纏向に相当する広がりを持っています。その中の「D地点」と呼ばれる王墓は、志賀島で出土した金印をもらった王の墓とする説もあり、一般には奴(ナ)国の中心地と言われています。
また、朝鮮半島の古書「桓檀(かんだん)古記」の、「伊都国は筑紫に有り。是より以東 倭に属す。」と書かれているのを信じれば、倭国(邪馬台国)はこの付近だったと考えられます。
須玖岡本遺跡からは、銅鉾・銅剣や銅鏡、小銅鐸などの銅製品工房跡や、菅玉や勾玉(まがたま)などのガラス製品工房の跡、国産絹織物の破片などが発見されており、弥生時代の最先端の文化・技術を持っていたと考えられています。
「邪馬台国は無かった」の古田武彦氏や、彼の影響を受けた方々はこの地を邪馬台国の最有力候補としています。春日市は福岡市のベッドタウンで市街地化が進んでおり、遺跡群の全容を掴むのは困難かも知れません。春日市や隣接する大野城市、那珂川町などにも多数の古墳はありますが、卑弥呼の墓と考えられるものは現在までに発見されていません。
須玖岡本遺跡 保存施設と出土品の一部(福岡県春日市) |
3) 甘木・朝倉(福岡県現朝倉市の旧甘木市、現筑前町の旧三輪町、夜須町)
高名な安本美典氏や彼が主催する「邪馬台国の会」の方々などが提唱する候補地です。「邪馬台国の会」のHPは邪馬台国を推理するのに役立つ様々なデータを掲載していますので、興味があったら覗いて見て下さい。
彼は天照大神=卑弥呼とし、高天原=邪馬台国、その場所を甘木市付近と考えています。 彼が指摘するように、甘木・朝倉と大和盆地には地名の共通性が多く見られ、邪馬台国(又はその後継者)が東遷したという説を採っています。 この地域もいくつかの装飾古墳を含め、多くの古墳がありますが、現在までのところ卑弥呼の墓と考えられる古墳は発見されていません。 |
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平塚川添遺跡
(福岡県甘木市) |
4) 吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)
魏志倭人伝には卑弥呼の都の様子について
「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり。兵を持して守衛す。」
と記しています。まさに復元された吉野ヶ里遺跡にそっくりです。幾重にも巡らされた環濠と城柵、巨大な居宮、敵の侵入を見張るための幾つもの楼観(物見やぐら)。遺跡の全容が明らかになるにつれ魏志倭人伝の記述にあまりにも似ているため、発掘に携わった学者達は絶句したそうです。
吉野ヶ里遺跡遠景 | 宮室(中央)と高位の人々(大人)の家 |
幾重にも巡らされた城柵。高い建物は楼観 | 環壕と城柵詳細(深い環壕、先端の尖った柵) |
広大な吉野ヶ里遺跡公園に囲まれるようなかたちで、「日吉神社」という神社があります。円墳だと考えられ、神社が鎮座するので頂部の神社直下は未発掘ですが、神社周辺から見つかった甕棺からは、40~50歳くらいの絹をまとった女性の遺骨、卑弥呼が魏から贈られた鏡の候補のひとつ、連弧文鏡(内行花紋)が発見されています。
吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の都ではないか、と考えている人もいますが、現在においては「吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代よりやや早い。」とされています。 ただし、私のような素人が何を言うか、と怒られそうですが畿内の土器年代などを物差しとするアカデミズムの年代判定には少々疑問を感じてもいます。 |
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日吉神社
(佐賀県吉野ケ里町) |
5) 山門(やまと)郡瀬高町(現福岡県みやま市の一部)
江戸時代の1720年ごろ、新井白石がこの地を邪馬台国として以来、近畿の大和と共に最も古くからの邪馬台国候補地です。
北部九州地方から瀬戸内地方にかけて「神籠石(こうごいし)」と呼ばれる石垣で区画した列石遺跡があります。現在までに16ヶ所が発見され、古代朝鮮式山城と言われています。日本書紀や続日本紀にも記載がなく、誰が何のために築いたのか謎の遺構です。
瀬高町の東側の丘陵部にも「女山(ぞやま)神籠石(こうごいし)」と呼ばれるものがあり、区画内には幾つもの古墳があります。「女山(ぞやま)」は「女王山」が訛ったものという古くからの言い伝えがあるそうです。この丘陵部のふもとの平野部に、権現塚古墳という直径45mほどの二段式円墳があり、これを卑弥呼の墓とする説もあります。
女山神籠石説明版 | 権現塚古墳 |
卑弥呼が景初2年(238年)、現在のソウル付近にあった魏の出先機関に使者を送ったのは、敵対する「狗奴国」からの脅威に対抗するための援軍を求めるためと考えられます。魏志倭人伝によると、「狗奴国」は邪馬台国の南にあり、男王の名は「卑弥弓呼」、副官の名は「狗古智卑狗」です。「狗奴」は「クマ」、「狗古智卑狗」が「キクチヒコ」であれば、狗奴国は熊本県の菊池付近と考えられ、それも瀬高町邪馬台国説が支持される要因のひとつです。
しかし、この付近では博多湾岸や筑後川流域のような、大規模な弥生遺跡が発見されていないのが弱点です。
日本書紀に神功皇后が、この地の土蜘蛛・田油津(タブラツ)姫を討った記事があり、「女山(ぞやま)」の女王とは、タブラツ姫かも知れません。
6) 宇佐神宮(大分県宇佐市)
「宇佐神宮は卑弥呼の霊廟」とする説です。
宇佐八幡宮とも呼ばれ、全国4万社あまりの八幡宮の総本社です。主祭神は第一神に八幡神とされる第15代応神天皇、第二神に比売(ヒメ)大神、第三神が応神天皇の母・神功皇后です。出雲大社となぜかこの宇佐神宮だけが「二礼四拍手」です。
宇佐神宮 | 宇佐神宮上宮 |
福岡県東部を合わせ、この地は古くから「豊(とよ)の国」と呼ばれていて、秦(はた)氏一族が居住していました。京都の「太秦(うずまさ)」もこの秦氏が移った地と考えられています。秦氏は中国、秦(しん)の始皇帝(ユダヤ人だったとの説があります。)の末裔と書かれている古書もあり、これが「日ユ同祖説(日本人とユダヤ人は同じルーツとする説)」なども生み出しています。八幡の「旗」は秦氏の「はた」と言われています。また、この地は「ウガヤ王朝説」や古代豊国文字で書かれているとも言われる「ホツマツタエ」など、興味は尽きないのですがここでは触れません。
応神天皇の八幡神についてはさておき、邪馬台国宇佐説は「比売(ヒメ)大神」を卑弥呼だとしています。ヒメ巫女(みこ)又はヒメ命(ヒメミコト)が卑弥呼と表記された、という訳です。
宇佐神宮は上に挙げた順番で高位としていますが、ヒメ大神が中央に祀られ、どう見てもヒメ大神こそ第一神です。
この「ヒメ大神」を宇佐神宮では宗像三女神としています。前回書いたように、日本書紀に宗像三女神を「宇佐嶋(うさしま)に降り居さしむ」と書かれているからです。宗像三女神は「天孫(あめみま=皇統)を助ける」立場ですから、応神天皇を差し置いて第一神にはなり得ません。そこで宇佐神宮は先の順にしているのでしょう。
奈良時代の769年、時の称徳女帝は皇位を臣下の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に譲るべきか否か、近くの伊勢神宮では無く、遠く離れた宇佐神宮に神託を求めます。
これも、宇佐神宮が皇祖アマテラス(=卑弥呼)の廟である証拠である、と宇佐説の方々は主張しています。
宇佐説は卑弥呼の墓を、宇佐神宮が建つ亀山の頂部だとしています。明治40年と昭和16年の宇佐神宮改修の際、石棺が発見されています。これが同一のものか異なるものかは不明ですが、埋葬施設であったことは確かなようです。
また、宇佐神宮から1kmほど西に離れたところに、境外末社の「百体神社」があります。
魏志倭人伝の卑弥呼が死んだ際の記述に、「徇葬する者、奴婢百余人」とあり、この百体神社はその「殉葬」された奴婢(ぬひ)を弔っているもの、と邪馬台国宇佐説の方々は言っています。
亀山神社 | 百体神社 |
7) 久留米市祇園山古墳(福岡県久留米市)
魏志倭人伝に邪馬台国の戸数は「七万余戸」と書かれています。人口にすれば30万人ほどになります。九州でそれだけの人口を養える土地は「筑紫平野」しかありません。
その中で卑弥呼の墓の条件に最も合うのが、この古墳だと考えています。
この古墳は九州自動車道の工事により消滅する予定でしたが、工事に先立つ調査によりその重要性が認められ、市民運動もあって、高速道をやや迂回することで全体の80%程が残されました。今でも高速道から見ることができます。
卑弥呼の墓の条件とは、
- 築造年代が3世紀中旬であること。
- 大きさが30m程度で、棺はあって槨(かく=棺の囲い)が無いこと。
- 被葬者が女性である可能性が高いこと。
- 100人の殉葬の痕跡を残すこと。
などです。なお、畿内の調査済みの古墳はすべて槨を持っています。
祇園山古墳は一辺が25m程度の方墳で、周辺には60基以上の殉葬の痕跡とも見られる小型埋葬施設が発見されています。
この古墳は筑後一宮、高良大社がある高良山の山すそにあり、高良大社ではその始祖「日往子尊(ヒユキコノミコト)の霊廟としています。
高良大社の主祭神「高良玉垂命(たまたれのみこと)」は倭国王朝説や、九州王朝説などで大きな鍵を握る神で、そういう意味でも気になる古墳です。
古墳調査図 | 高速道路から見る祇園山古墳 |
九州説は他にも映画「まぼろしの邪馬台国」の長崎県島原半島説、宮崎県西都市説などもあります。
大和説の方々からは「九州説はどこかに一本化しなさい」との苦言を呈されているようですが、卑弥呼が魏からもらった「親魏倭王」金印がどこかから出てこない限り、いや、出てきたとしても永遠の謎かもしれません。
4 卑弥呼とは誰か
現在、古代史研究家の多くの方は「卑弥呼=天照大神」という立場をとっています。その理由は、
- 日本書記に書かれた天照大神の名は「大日孁貴(オオヒルメムチ)」である。大、貴は修辞語だから、核心は「日孁」である。「孁」は「巫女(みこ)」の意味を持つので、「日の巫女」即ち「ヒミコ」である。
- 卑弥呼が死んだのは247年又は248年と考えられるが、このいずれの年も日蝕が起こっている。これが「あまの岩戸神話」となった。
- 卑弥呼、アマテラスのいずれも霊的能力が高く弟がいるなどの共通点がある。
- などです。
理由1について、自分でも確認しましたが、左の表の左側の文字が「メ」です。この 字は「女」の好字に過ぎないようで、巫女の意味を持つのは右側の字です。「日孁」を「日巫女(ヒミコ)」とするのは単に間違いか、意図的なミスリードでしょう。
さらに、ヒミコの使者が自分達の王の名として「日巫女」と言うだろうか、という疑問もあります。 |
理由2の日蝕と「あまの岩戸神話」、さらにはヒミコの死の原因とを結びつける考えは、天文学者が提唱し、作家の井沢元彦氏が世に広めました。その後幾人かが再検証して、上の2回の日蝕を導き出したのは「邪馬台国 博多湾岸説」に立つ方ですので観察位置を福岡市としています。248年9月5日の日蝕は皆既日蝕とまでは言えず、247年3月24日は皆既日食ですが日没直前で、果たして人々が太陽の変化に気付いただろうか、という疑問もあります。
私も最初は「卑弥呼=アマテラス説」については疑って掛かりましたが、現在はその説そのものは肯定しています。魏志倭人伝に卑弥呼という名が記されている以上は、正史である日本書記にもそれらしい人物を記しているはず、そう考えたからです。
しかし、ここで疑問が生まれます。アマテラスとは「太陽神」であり陰陽説で言えば「陽」です。果たして「陰」である女性神が太陽神に成れるのだろうか。
全国に「天照」の付く神社はありますが、日本書記の成立以前からある「天照」の付く神社の主祭神は全て「天照国照彦日明命(アマテラス クニテラス ヒコ ホアカリノミコト)」あるいは「天照国照彦天日明櫛玉饒速日尊(アマテラス クニテラス ヒコ アメ ホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト)」です。
京都市太秦にある三本足鳥居で有名な木嶋(このしま)神社の正式名は「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社と言いますが、この天照もホアカリだと考えられています。
この神社は秦氏がこの地に移ってくる前からあったようですが、蚕の社(かいこのやしろ)や三本足鳥居は機(はた)織りの秦氏、ユダヤ人だったかも知れない秦氏が築いたものだと考えられます。
ホアカリは皇統の始祖、天孫降臨したニニギの兄ですが、記紀の神武東征記に登場するニギハヤヒは物部氏や尾張氏、海部氏などの祖、とされてい |
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木嶋神社 三本足鳥居 |
ます。ホアカリとニギハヤヒの関係はよくわかっていませんが、両者は同一人物(神)あるいは同じ系譜と考えられます。
すると、真の「天照大神」は物部氏や尾張氏の祖となり、「天皇家は物部氏や尾張氏よりも格下」というとんでもないことになります。ちなみにニニギのフルネームは天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(アマニギシ クニニギシ アマツヒコ ホノ ニニギノミコト)で、ホアカリとは格の違いを感じさせます。
そのために日本書記編纂者はアマテラスとはもともとはホアカリだったのを卑弥呼にすり替えたのではないか、と考えています。書記は「ある本によれば、アマテラスの名は『大日孁貴(オオヒルメムチ)』と言うらしい。」そんな書き方です。その一行が読む者に「アマテラス=女性」という固定観念を植え付け、卑弥呼を連想させる名とすることで、卑弥呼を皇統に組み込むことにも成功しています。おそらくは天才藤原不比等あたりのアイデアでしょうか。
そう考えるとアマテラスの弟、スサノオ(素戔男尊)はどうでしょう。魏志倭人伝では卑弥呼の弟については、「男弟あり、たすけて国を治む。」としか記述されていません。「荒ぶる神 スサノオ」のイメージは全くありません。
中国の後漢書、永初元年(西暦107年)の項に、「倭國王帥升(スイショウ)等、生口百六十人を献じ、見(まみ)ゆるを請願す。」とあります。
卑弥呼の時代より100年ほど前の出来事です。
「帥升(スイショウ)」と「スサノオ」、そっくりではありませんか?
西暦57年に「漢倭奴国王」金印をもらったのは「奴(ナ)の国」の王ですが、「ナの国」と出雲の「根(ネ)の国」は音感がとても良く似ています。「古代人はズーズー弁だった」という説を信じれば、両者は同じかも知れません。そう考えれば「スイショウ王(スサノオ)」は博多湾岸から出雲までを治める王だったと考えることもできます。
帥升王(スサノウ)の子孫(オオクニヌシ)が治めていた列島を卑弥呼(アマテラス)が奪い取った。「国譲り神話」の真相でしょう。
「スサノオを皇祖アマテラスの弟とすることで、皇統の優位性を暗示する。」
そんなカラクリが隠されている、そう思いませんか?
第6回 了